山形市飯豊町天養寺観音堂に行ってきました                [2021年11月]

11月の初め、山形市飯豊町を訪れました。今回の調査は、飯豊町にある天養寺観音堂に奉納された2つの絵馬が対象です。私たち修士1年はTFの先輩の指導のもと、写真撮影による絵馬の調査を行いました。調査の前に飯豊町の文化財担当の方に天養寺について教えていただきました。

天養寺観音堂は飯豊町最古の建造物で、記録に残るところでは15世紀にはすでに実存していたことがわかっています。天養寺には、もともと観音堂を含む4つの建造物があったと見られるものの、焼失等により、現在は県指定文化財の観音堂のみが残っています。天養寺の存在と参拝の様子は、天養寺観音堂の絵馬に描かれており、江戸・明治期に参拝者が奉納した様々な絵馬が現在も残されています。こうした絵馬からは天養寺が人々の信仰の対象とされてきたことを示しています。また、御堂の中には建物と同じく県指定の文化財である聖観音立像をはじめ、大小様々な仏像が安置され、文化財指定を受けていない資産も大切に保護されています。

現在住職はおらず、堂守が観音堂の管理に携わっているそうです。調査期間中に来訪者に出会うことはありませんでしたが、地元の方を中心に、現在も参拝者がいるようで、観音堂のすぐ近くには駐車場が設けられており、山の中でも比較的アクセスしやすいようになっていました。堂内には、地元の住民が移った写真や捧げられた千羽鶴やすずも残されており、今も大切に利用されていることがわかります。

 

天養寺の歴史的変遷に加えて、文化財事業に関してもお話を伺いました。天養寺では、比較的質の良い状態の絵馬が多く残っており、これらを保存処理し、展示しています。将来的にはキャプションをつけ、訪れた人に内容がわかるようにする予定だそうです。そのほか、これまでには、観音堂周辺の遺構の発掘調査を実施、周辺に遊歩道を設けるなど調査・整備が進められてきました。私たちが調査に訪れた時は、建物保護のため、建物に貼られた千社札を剥がす作業をされていました。

 

天養寺では、上記のように文化財の整備・保存・活用が継続されています。一方で、お話を通して、文化財行政と地域の方々の認識の差の中で事業を進めている様子がわかってきました。文化財として保護するにあたっては様々な配慮が必要となり、保護する側としては、慎重に扱うものとの認識に立って判断するのが常です。一方で、地域の方々は、堂内を片付けたり、お地蔵に服をきせたり、参拝に便利なように駐車場を近くに作ったりと、日々の生活の一部として天養寺と向き合っているようです。その認識は、文化財として、あるは過去の遺産として見なすのとは少し違う視点で、同じく大切ではあるが、今そこにある「一つのもの」として捉えている印象です。現在ある「もの」として認識しているからこそ、掃除をしよう、寒くないように服を着せてげたい、アクセスが便利な方がいい、と感じるのだと思います。一方で、こうした認識は時に文化財を危険に晒す危険性もあります。知らないうちに文化財としての価値があるかもしれないものを処分してしまったり、文化財や遺構があったかもしれない場所を発掘調査なしに転用してしまったりという可能性も含んでいます。

しかし、地域の人々の行為を頭ごなしに否定するのでは、満足のいく保護が実現したとしても、彼らを文化財から遠ざけてしまいます。そこで、できるだけ地域の人々の行動にも目を向け、時にアドバイスや文化財の知識を共有しつつ保護を進めているとのことでした。そうすることで、もし何か見つけたり、何かしたいことがある時、相談にきてくれるようになると言います。また、日々の活動とその姿勢を通して、地域の人に伝えられることもあります。その一つが、千社札の撤去作業です。千社札とは、参詣者が参拝の記念に柱や天井に貼り付けたものです。もとは関東圏を中心とした風習であり、この地域の風習に基づくものではないことから、地域の文化慣習を守る目的で撤去しているそうです。加えて、地元の人々に日々何かをする姿勢を通して文化財との向き合い方を伝えたいという思いもあるのだそうです。

お話の中で最も印象的だったのは、「地元の人から見ると天養寺は現実であり、現在である」という言葉でした。その言葉はまさに文化財保護の視点と利用者である住民の視点の差を表しているように思います。両者の認識の違いの中で、保護事業といかに折り合いをつけていくかという点は、活用されている文化財であるからこそ抱える課題である一方、うまく折り合いをつけることができれば、地元の人が自然と文化財保護と関わっていける可能性でもあると感じました。

[Comments by a student K, in the field practice of Prof. Matsui lab]